こんにちは・・・鹿児島県南大隅町(旧根占)出身で東京都町田市成瀬の自然豊かな街に住んでいます大園です。
「歌子のコラム」をお読みいただきまして有難うございます。🌷🌴
今日はパートの仕事をしてきました。
今朝起床した時には曇って雨も降っていましたので、雨靴履いて傘をさしてパートに行かなければならないのかと思っていたらお天気も良くなりましたので傘だけ持って出勤いたしました。
仕事の仕方も慣れて今日は上手くできた方だと思っています。
帰りは途中のコンビニでおにぎり一個とおやつに食べるパンを買って帰りました。🐝🦀
以前は電車で新宿まで行っていましたのでパート先が近いことは気が楽です。
パート先からは恩田川遊歩道が近いのですけれども散歩しないで直通で帰ります。
去年までは、様々な人に(又会いたいのでお土産持っていきます。)言ってきましたが、年齢的に遠くまで行く気力が
なくなったような気がしています。
約束果たせられないことをお詫びしたいと思います。💮🌱
パソコン作業も億劫になりました。
趣味程度の記事と写真やお借りしたイラストを入れての投稿のない日もあると思います。
空海に高野山を授けた女神を祀る紀伊国一之宮 丹生都比売神社の引用とホームページのリンクを貼らせていただきました。🍇🍏
空海に高野山を授けた女神を祀る
紀伊国一之宮 丹生都比売神社-ホームページ引用
https://www.jisyameguri.com/chiiki/wakayama/niutsuhime/
高野山開創に欠かせない神様
※画像:高野山教報 第1566号より
上の画像は、空海と狩場明神の出会いのシーンで、高野山開創の伝承を語る上で欠かせない場面です。
弘法大師の伝記に必ず登場します。高野山上にある壇上伽藍の御社でもこのシーンを絵馬に使っています。🗯🗨
それだけ重要なシーンなのですが、このシーンは丹生都比売神社のことを知るエピソードでもあります。
内容はこんな感じです。
唐で密教を学び終えた空海は、日本に帰る前に明州の浜で、
「密教を広めるのにふさわしい地を示したまえ」
と、密教の法具である三鈷杵を日本に向かって投げたのです。
日本に戻ってきた空海は、落下地を尋ねて大和国宇智郡(奈良県五條市付近)を歩いていました。
すると、向こうから筋肉たくましい1人の漁師が犬を2頭連れてやってきたのです。💜💛空海はその漁師に呼び止められたので、旅の目的を語ったところ、狩人は、
「私はその場所を知っている。案内しよう。」
と、2匹の犬を放ちました。
空海はその日、天野の地で宿をとりました。
そこで漁師に、ある山人を紹介されました。山人に三鈷杵の落下地のことを話すと、
「ここから南に行くと、平原の沢がある。そこがあなたの求める地だ。」💢💦
と言い、翌日その山人が案内することになりました。
道すがら、山人は、
「実は私はこの山の主なのだ。あなたにこの領地を差し上げよう」
と告げました。
山の中に百町(11キロ)ほど入ったところ、八つの峰に囲まれた、鉢を臥せたような姿の平原にたどりつきました。
そこの一本の松に三鈷杵が打ち立てられていたのです!
それは確かに空海が唐から投げた三鈷杵でした。空海が山人に、
「いったいあなたは何者なのですか?」
と尋ねたところ、
「私は丹生明神。昨日の漁師は狩場明神である。」
と告げ、姿を消したのでした。
このような伝承が弘法大師の伝記にあるのです。💢💥
高野山上の壇上伽藍にある御社は、この地から守護神として丹生・狩場両明神を勧請(神様を招くこと)して建てたものです。
これが、神仏習合のはじまりといわれています。高野山の僧侶は、今でも御社の前での読経を毎日かかさず行っていますし、百日間の修行(加行)を終えた僧侶は、丹生都比売神社に守護を願う札を納めにくるそうです。
丹生・狩場明神は高野参詣曼陀羅にも描かれますし、高野山にとっては重要な神様なのです。🍄🍆
令和二年一月14日に写しました。